ラオ屋と鳶屋








 あるひとりの青年がいた。
 商売は鳶だ。
 大工仕事の鳶ではない。
 大空にくるりと輪を描くあの鳶だ。
 商売をやりたいが元金がない食い詰めた若者のよくやる手で、買い物代行といったことをやる。代行といっても近場じゃ話にならない。それこそ何十里も先の市のたつ町場まででかけてゆき、朝注文を受け新しいものを走って買いに行き持ってかえって金を貰いその金で支払いをする。
 頼まれ物は必ず探す。
 おまけをつける。
 なに、高いものじゃない。石鹸や蝋燭といった小間物だが、その心がけ一つが大きく違う。もっともこのまちではそうでもしないことには客がつかないという切実さがあった。みんな貧しいのだ。飛び仲間の中にはただでさえ安い手間賃が減るを惜しんでかすのような石鹸や獣のあぶらそのものである蝋燭などに誤魔化すものもいたが、その鳶屋はそうではなかった。誠心誠意お客のためにその時々手に入るものの中でもっともよいものをえり分けて届けた。人に胸はって誇れる仕事ではなかったが、鳶屋は租にして野だが卑ではないのだ。

 同じくラオ屋という商売があった。
 ピーっと蒸気で笛の音を立てながら屋台を引いて街の中を流して歩く。
 キセルの雁首と吸い口とはいずれも金具であるがつなぐ管は竹でそれをラオと呼んだ。
 脂で汚れたその管を掃除したり取り替えたりする商売であった。
 このまちのラオ屋はまだ若い少年の風情をその青い顎あたりに残した青年であった。普通ラオ屋は煤けた爺の仕事と決まっているからこれは珍しい。それもそのはずラオ屋はなくなった父親からその仕事を継いだのだ。父親が健在の折には儲けのない、こんな仕事親の代で終りだと吐き捨ててはみたものの、結局情というやつで継いでしまった。
 しかし継いだはいいが仕事はない。
 とある飯屋の店先でラオ屋と鳶屋もふたりながら給仕の赤い前掛けを眺めつつ二人並んで座ることがあった。はじめはただの偶然だった。なんだ良く会う常連だな、という程度の認識しか互いになかったものだった。だが、仕事が減りやることがなくなるとわずかな茶代だけを懐にぼーっと通りを冷やかすしか仕事はない。通りに面した店先であれば誰かが仕事をくれるかもしれないからだ。
 冷やかし仲間ということでひと言二言言葉を交わすようになるのは必然だった。
 「おう、しまいか。」
 「ああ、しまいだ。」
 「はええな。」
 「でもねえよ。」
 夕刻、あまり一面緋毛氈を敷き詰めたみたいな茜にそまった通りでふたりはよくそんな会話を交わした。鳶屋は犬を飼っていた。赤い毛並みのいい犬だ。よくしつけられていて、くるくるした黒い瞳が賢げだった。
 「よくなれてんな。」
 「まあな。一緒に家をおんでたオレの相方だからよ。な。」
 飯屋の擦り切れた綿なしおざぶを尻っぺたにすえて、嬉しげに犬の顎を掻く鳶屋をラオ屋は羨ましげに眺めた。犬は鳶屋の行くところにはどこでもついてきた。本当は禁止されている飯屋にもその大人しさをかわれて公認されている。鳶屋が客待ちの間じっと物陰に座り込んでいて、餌の時だけ鳶屋にすりよっていく。餌といってもたいしたものじゃない。せいぜいが飯屋の残飯を一銭で払いうけたようなものだ。身の付いていない骨の出汁すらスカスカな魚のあらだとか、人の歯型もくっきり残った鶏の足だとか白菜の芯の根っ子というより岩のような部分だとかそんなものだ。そんなものだが鳶屋から差し出されたそれを犬はふんふんと鼻を鳴らして喰らった。
 「いいな。」
 一緒に商売をしていた父親をなくしていらいラオ屋はずっとひとりだった。母親も兄弟もいない。例え犬であっても相棒とよべる存在がいれば少しは癒されるだろうか。鳶屋と犬をみてラオ屋はふとそんなことをおもった。鳶屋に撫でられている時の犬はしんそこから心許した顔をして、毛並みがいかにも快さそうだ。
 空虚な気持ちで裾を割り足を組んで商売物のキセルに火をつけたラオ屋に鳶屋がふとささやいた。
 「ラオ屋、お前はどこの出だ。」
 「どこの出も何も、オレは親父の代からこの町のラオ屋だ。」
 カランと下駄を鳴らしつつ、ラオ屋がこたえた。親父の代からと人の言うのも恥ずかしい父親だったが本当のことだから仕方がない。
 「ふううん。」
 「鳶屋お前は?」
 「ああ、まあオレは遠くだ。」
 「遠く?」
 「そうだ。山また山に囲まれた田舎だ。こいつとはその頃からずっと一緒だ。」
 「そうか。」
 ラオ屋はけむりを吐きながら相槌を打った。うん、と、鳶屋が頷いた。
 どちらともなくグー・・と腹の虫がなった。
 ラオ屋と鳶屋どちらもが己の腹を抑えた。鳶屋の犬は残飯であれど曲がりなりにも飯にありつけてはいたが、ふたりがふたりとも今日は一日抜きだった。
 「きついな。」
 「そうだな。」
 「腹減ったな。」
 犬に投げ与える誰かの歯型のついた鳥の骨から必死に目をそらし、わきあがる唾液を飲み下してラオ屋は言った。
 だが鳶屋は、ラオ屋よりもこけた頬で、その瞳に紗をすまわせて砂埃でかすれてごわついたくちびるに湿りをくれることなく囁いた。思えば鳶屋の声はいつでも遠く唐土から飛んでくるという空を黄色く染める砂漠の砂のように乾いていた。声はいつでも囁きの様であり、じゃりじゃりと滲んでいた。飯屋に茶を頼んでいるとはいえ、おかわりを頼むことなしにずっと一杯で粘っているのだ。その声がくちびるが乾いてひび割れるのも当然といえた。
 「まあな。―――でもこんくらいならまだ平気だ。」
 「そうか?」
 「ああ。」
 「不況だ仕事がねえつってもまだ茶代はある。まだ平気だ。」
 「でもみんなだんだん渋くなってるな。」
 「ああ、でもまだオレのいたところよりましだ。」
 「そうか。」
 「そうさ。」
 鳶屋の横顔は削げてとても鋭かった。鼻筋は高かったがそれはまるでよく切れる黒曜石の切っ先のようで、ラオ屋はその横顔に落ちる影を不思議に思ったものだった。己よりも持たざるものの虚勢にラオ屋は空っぽの胃を抱えて茜の空を眺めた。


 世間様は不況だ不況だというけれど、花のお江戸には米がある、人がいる、仕事がある。お江戸の不況と名も知れぬ地方都市の一寒村の不況とは比べ物にもなりはしない。
 ラオ屋と鳶屋がいる町は、地方ではあるが少しは開けた場所だった。それでも穴あきの虫食いのようにそんな場所にもじわじわと波はやってくる。ラオ屋も鳶屋も人の隙間の商売だ。人がちょっと締まるとそれだけで干上がってしまう。誰より先に身をもって貧しさを知るふたりはかつかつの瀬戸際にいた。日がな一日店先を借り切る礼儀として茶代一杯分くらいは懐にあったがもうそれ以外は一分たりとも鼻血を出しても逆さにふっても出ない。もう以前とは違って飯屋の店先に座っても声がかかることはない。ほんのときたま二人を哀れんだ飯屋の親父が餓鬼の使いごとを茶代と引き換えに頼んでくれる。だが、それがなんの役に立たないことは解りすぎるほど解っていた。
 「ラオ屋、どんな塩梅だ?」
 ラオ屋は無言で首を振る。
 「鳶屋、お前は。」
 鳶屋も同じく首を振った。鳶屋の背中にはトレードマークの藍抜きがある。だが、ここ数ヶ月でその藍抜きはぐっとその勢いを弱めた。それは勿論仕事がないせいでもあるし、なにより肉厚を誇っていた鳶屋から肉がごそりと落ちたということでもあった。
 「なあラオ屋。」
 「あァ?」
 「お前、犬は好きか。」
 「いぬぅ?」
 「そうだ。好きか。」
 「赤黒斑の順にすきだね。」
 唐突な鳶屋の問いかけに、ラオ屋は煤けた襟をあぶらで光らせて笑った。こんな己の命のはざかいに犬のことを言う男が憎らしく、それほど心を傾けられる存在がいるということが羨ましかったのだ。
 「喰えるからか。」
 「そうだ。くれるのか。」
 鳶屋の問いかけにラオ屋はこたえた。軽口は半ば本気半ば以上が冗談だった。
 「はら、へったな。」
 「そうだな。」
 「ラオ屋、オレがいなくなったらお前にこの犬をやる。煮るなり焼くなり好きにするがいい。」
 ラオ屋は吃驚して目を見開いた。くれるのかといってはみたが本気だとは思ってなどいなかったからだ。驚いてそして、疲れきり憔悴した鳶屋の影の浮いた落ち窪んだ眼窩に気づいて、声を顰めた。
 「田舎に帰るのか。」
 「まぁそのようなものだ。」
 鳶屋はまるで影のようにゆらりとその場から立ち上がり、そして砂のような声で低く囁いた。
 ラオ屋は鳶屋の藍に抜かれた背中を見送った。



 それから間もなくしてラオ屋は鳶屋がいなくなったことを知った。
 いつもであるならば主に餌を与えられているはずの犬がいつまでも盛り場をうろついていたからだ。そのうち鳶屋がひょっこり顔を出すものと思っていたラオ屋は気にかけつつもそのままにしておいた。
主がいなくてもどこかで餌を得ているのだろう、と。
 「ラオ屋。」
 あの声で、いつもの調子で呼ばれた気がしてひょいとそちらを見た。
 そこにいたのは一匹の犬。
 「なんだ、お前か。」
 お前、主人はどこへいった。
 ふんふんと尻尾を振りたてて濡れた瞳で己を見つめる犬にラオ屋は話し掛けた。耳のあたりを撫でてやると犬は大人しく撫でられるままに目を閉じた。と、犬の口の端からよだれの糸が一筋落ちた。何かをくわえているものらしい。
 「ん?何だ。お前なに食ってんだ、いいなぁ。」
 空腹に耐えかねてラオ屋が軽口を叩くと、犬は黒々と濡れた瞳をラオ屋にむけた。そして口の端からはみ出したそれをぽとりとラオ屋の前に落とした。
 「くれるのか?ありがとう。」
 犬に言葉がわかるとは思えなかったが、尻尾をふりふり犬が落としたものをラオ屋がみるとそれはちいさな骨だった。
 鍵の字に曲がった鳥の足のような。だが、関節の浮き出した太さのことなる。
 「お前、それはなんだ。」
 ぞくりと、背中を震わせてラオ屋は落とされた小片を見た。
 それにはちいさな肉片がここびりついていた。
 まるでひとの爪のごとき肉片が。
 「おまえ・・・。」
 ラオ屋はひとこともなくそのちいさなかけらをてのひらの上に掴み取ると、凝視した。
 『ラオ屋、オレがいなくなったならお前にこの犬やる。』
 耳の中でからからと錆びた声音が響いていた。





 その場所は人が生まれるもやさしい死ぬもやさしい、ただ生きて葬られることが何より難しい場所だった。生まれるの死ぬのといったことは自然現象だが、生まれても仕事がないから喰っていけない。死んでも葬る土地がないから、人が死ぬと犬に喰わせる。
 人を喰わせた犬をかわいがる。
 おまえオレを喰ってくれよ、残らずきれいにしてくれよ、と。
 鳶屋はそういう場所の生まれだった。
 ラオ屋はそんなことは知らなかった。
 鳶屋のことなど何ひとつ知らなかった。
 ただ幾度か、ならんで埃っぽい通りを眺めただけだ。 
 ラオ屋は鳶屋のかけらを掌に乗せたまま、その場に佇むことしかできなかった。










SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送