assassin







サーリフはコートのポケットに指を忍ばせた。
ポケットは形だけで、実はその機能を果たしていない。
指はコートを素通りし、その下に隠された硬い金属にふれた。
金属は細く、そして頼りなげだが、その真価はその形にはない。
真価は、サーリフの体を縦横に取り巻くものの突端であり、これからサーリフが行おうとする行動の引き金であることにあるのだ。
サーリフはその冷たい肌触りに、しばし身をふるわせた。




     ※




サーリフがハサンという名の年長の同胞に呼び出されたのはつい先日のことだ。
ハサンは普段から厳しい表情を崩さない人であったけれど、いつにもましてその表情は固かった。
「サーリフ、君は優秀な少年だ。この呼び出しが何を意味するものか薄々気づいていることだろう」
ハサンはそんな台詞で口火を切った。
サーリフは年長者の言葉にただ頷いた。
「これを見るんだ」
ハサンはサーリフに紙切れを差し出した。
それは一枚の写真だった。
どこか異国でとられたものなのだろうか。
サーリフの知る砂に煙る空とは違う、滴る緑に縁取られた青空を背景に、二十代とおぼしき白人の青年が微笑んでいた。青年の髪は陽を弾く蜜のようになめらかな金色で、瞳は背後の空を移したかのような濃い青だった。
青年はカメラを向けた相手に信頼をおいているのだろう。
その笑顔は曇りなく、どこまでも屈託がなかった。
サーリフははじめ大の大人の開けっ広げな表情に驚きまじまじと見つめ、そして青年が自らの兄と同年代であることに思い至ってからはその落差に震えた。

「その男はキドニー・アンダーソンという」
ハサンはサーリフの震えが収まるのを待って、ひといきついた。
「近々ヅサナ地区の学校に慰問という名目で視察団がやってくる。それはアメリカお得意の偽善の押し売りというヤツだが、視察団にはそのキドニーも含まれる。キドニーは名前からわかるように、かの悪名高き石油会社アンダーソンの直係だ。それも次期と目されトップのもと帝王学を収めている人間だ。政府高官や企業の重役がイメージ戦略のために視察にくるのは珍しくないが、これほど権力に近い人間がやってくることは珍しい。これは、チャンスなのだ。われわれが味わってきた悲しみ、苦しみ、血の叫びを世界に見せつけてやるための絶好の」
ハサンはひといきにそこまで言うと、老い疲れた駱駝のようにゆっくりと瞬きをした。
「――――だが、企業のトップに近いだけあってその警護の堅さは並ならない。近づこうにもなまじっかには近づけない。相手に警戒されず接近する手段はそう、多くないのだ」
沈鬱な影が、その頬に差した。





サーリフはその言葉の意味を正確に理解していた。
ハサンはサーリフに、闘う機会をくれるというのだ。
サーリフやハサンを虐げ、そしてその事を自覚すらしていない害悪の徒に、正義の鉄槌をくだすチャンスをくれるというのだ。それは神の御心にも叶い。サーリフやサーリフをはじめとする同胞たちの悲願である。なんと素晴らしいことだろう。
サーリフの頬は紅潮した。
勿論、やらせてくれ、とハサンにいうつもりだった。
だが、サーリフが口を開こうとした瞬間、ハサンが話を接いだ。
「断って・・・くれても構わないのだ」
それは、サーリフにとって承知しがたい台詞だった。
「サーリフ、君は若い。あたら先の長い命をむざと投げうつことはない。」
「何をいうんです! 僕は行きます! 僕は子どもだ。だから相手は油断する。僕は誰よりもその懐に近づきやすい。だから僕を呼んだ。そうでしょう、ハサン。僕以上にうまくやれるものはいない、となると僕が実行することは決定事項だ。なのに断ってくれても構わないだなんて! あなたは僕を命を惜しむような臆病者だと考えているのですか? だとしたらそれは僕と僕が命を捧げる神に対してのひどい侮辱だ!!」
臆病者よとそしられるのかと思うと悔しさに涙すらにじませ、勢い込んでサーリフは言った。
「――――――侮辱ではない。我々が悩まなかったとは思わないでくれ。君は若い。いっそ幼いといっていいほどに若い。自らの命の重みも感じられぬほどに、今まで任務を行ってきた誰より君は幼いのだ、サーリフ」
ハサンはかわらぬぬはずのその表情を歪めた。
眉間にふかくきざまれたしわに懊悩が浮かんだ。
「我々には血もある。涙もある。例え神の御前といえども、誰がそのようなものを自らより先に進ませたいものか。臆病なのは我らの方だとも、怯惰にうたれているのは自らよりも年若い者を進ませようとする我らの方だとも――――サーリフ、私はおまえが断ってくれる事を願っているのだ・・・」



ハサンの言葉は真心にあふれていた。
サーリフにそれは伝わった。
しかし、サーリフは言い募った。
「僕は、行きます」
「サーリフ・・」
「僕の父は戦で死にました。投下された爆弾で母も姉も殺されました。僕は生き残った兄とふたりこの道に入りました。兄は僕の決断を褒めこそすれ、叱る事などないでしょう。もとより惜しむものなどは何ひとつありません。僕が、やります」
サーリフは、そう言い切った。
あの日、母と姉が家もろともに爆弾の炎の中であかあかと燃え落ちるのを見つめながら兄が呟いた台詞をサーリフは忘れていない。
『サーリフ、俺たちは腹を開かれ真っ赤な血をしたたらせ祭壇の前に捧げられた羊だ。だが、羊は神のものだ。誰か、人のものではない。俺は抵抗なく刈り取られる命ではありたくない。俺は、戦う』
兄の台詞はサーリフの胸に焼きついた。
サーリフは、戦いをいとわない。
「行かせてください」
それは正義に憧れるただの子どもの言葉ではなかった。
「そうか・・・」
ハサンは溜息をついた。




   ※




サーリフは、体重の十分の一にもなる重石を体に幾重にも巻きつけている。
それはすべてサーリフの指先に触れる細い金属につながっていた。
サーリフの胸はドキドキと高鳴った。
足はふわふわとしてたよりない。まるで宙を踏んでいるようだ。
ここまでサーリフは誰にも止められてはいない。
大丈夫だ。
計画道理なら、ターゲットのキドニーはもうすぐに現れるはずだった。
汗が一滴、眉頭を伝った。
知らないうちに汗をかいていたのだ。
と、その時サーリフの視界を大量の黒と金色がよぎった。
黒は金色を囲むSPの波だった。
金色は蜜のようにとろけながら陽を弾いている。
白い肌、青い瞳。
サーリフよりもはるかに大人でありながら、どこか子どもめいた匂いを残した男。
キドニー・アンダーソンだ。
間違いない。
兄にしっかりと外れないように重石をつけてもらいながら、何度も繰り返し見た顔だ。
「キドニー、キドニー、キドニー」
つい繰り返し歌うように呟いてしまい兄に笑われた。
『それじゃ恋人に捧げる歌じゃないか』と。
恋焦がれていた相手にめぐり合った瞬間の感動は、いったいどれほど大きいのだろうか。
それはおそらく今キドニーを前にした自分の動揺ほど深く激しいものではあるまいとサーリフは思う。
キドニーだと、そうとわかった瞬間に、背中が一気に総毛立ち、浮いていた汗が引っ込んだ。




金属が。
体に数キロの負荷をかける爆弾にくらべ存在感のない細いピン。
指に絡むそれがとてつもなく重かった。




カタカタと歯の根が震えるのを奥歯をかみしめてやりすごそうとするが、わきあがる甘い唾液に歯が浮いてしまう。
う、わぁぁぁん・・・と耳鳴りがし、世界がキドニーただ一点に収束してゆく。
キドニーの詳細がやけによく見えた。
それは、サーリフがひと足毎にキドニーに近づくせいだけではないように思えた。
白い肌は少し荒れ気味で、鼻の上にそばかすが浮いていた。
髪は見事な蜜色なのに、青い瞳を取り巻くまつげは濃いブラウンだった。
慰問先の学校の子どもに貰ったのだろうか、チャコールグレイのスーツの胸に、紙でできた花を刺している。
と、じっと凝視する視線に気づいたのか、キドニーがサーリフを見た。
視線が交わり、絡み、結ばれた。



不思議なことに嘘のように震えがとまった。
耳鳴りもやんだ。
『キ・ド・ニー』
おぼえてしまった形に唇が動く。
一瞬、『え?』とでもいうように向き合った青い瞳が翳った。
まるで油をさしたかのようになめらかに指が自然に動いていた。
サーリフは、かすかに微笑を浮かべた。
視界の端にSPのスーツの背がキドニーをかばうように動くのが見えた。
ピンは外れた。
全ては神の御心のままに。















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