五月といえば思い出すのはひとりの少女だ。
バレエをしていたらしくうわぜいのぴんとのびた、どことなく張りつめた横顔をもった少女だった。
少女のそばには常に母親がつきなにくれとなく手伝いをしていた。
その様は母親というよりは世話やきな乳母やのようで白い日傘をかかげられつつガーゼのハンケチで汗をぬぐわれる彼女はおひいさまのように見えた。
日傘を我が子にさしかける母親はひとつ段があるたび少女に呼びかける。
それには理由がある。少女は足が不自由なのだ。
少女はつまさきをかるく引きずりながら段をあがる。
その爪先は窮屈な靴に押し込められ続けたせいで変形し、爪は鋭く肉をかみ一歩あるくごとにきらめく痛みを少女にあたえた。
靴を少女に与え続けたのは誰あろう彼女の母親である。
少女を美しく飾る小道具として、母親は自身の目に見える愛情のひとつとして、少女に靴を与え続けた。
少女は苦渋に眉ねをよせながら寸法の違う靴を履き続けた結果、その指先を変形させた。
一歩歩むたびに痛みのために青ざめ、歯を食いしばる彼女のくちびるは血の色をうつす。
そのような臘たけた少女の様子にひかれてつどう男の数はおおいけれども誰も二人の間にはいれない。
母親と少女はそれだけで完結した世界でほかのなにものをもたちいることができない。
これらははじめから意図されたものでは決してなかった。
母は少女を思い少女は母を慮っただけである。
しかしどうだ二人のうかべる満足げな笑みはまるでそれこそが唯一無二の望みであったというようではないか。
母と娘、ふたりの間にあるのは蝸牛の歩みのごとき緩慢な絆。






H16.12.12
『少女人形』冬木精一(ふゆるぎせいいち)より一部抜粋










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